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天正10年(1582年)6月2日 明智光秀が本能寺を急襲し、織田信長が自刃した時、安土城には、留守居役として蒲生秀賢が二の丸に入っていた。 翌日、午後になって蒲生秀賢は場内の婦女子を連れて日野城に移る。 その後、明智光秀が安土城に入ったのは5日になってからだった。 残ったのは光秀の女婿である秀満。 14日。山崎の合戦の敗報を受けた明智秀満は、安土城から全軍を率いて坂本城へ入る。 太閤記によれば、この時、すなわち明智秀満の安土城退去の際に城に火が懸けられたと記している。 しかし、当時の公卿・吉田兼見の残した「兼見卿記」には、6月15日に安土放火とある。 安土城天主の焼失の原因としては、この14日の明智秀満退去に伴い、翌15日に城下に押し寄せた落ち武者狩りや略奪行為の中、町に放たれた火が天主に燃え移ったためと考えられている。 一方、宣教師として日本に来ており、信長の庇護下にあったルイス=フロイスの著書「日本史」にも、明智秀満が安土城に火を懸けずに坂本城へ退却したとある。 織田信雄は、当時伊勢松が島城におり、2日の本能寺の変にも動かず、9日になって 、日野城に入っていた蒲生秀賢に促されて土山まで軍勢を進めてきていた。 ・・・・・そして安土焼失。 真相は今も謎のままである。 |